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日が落ちると、小高い林に囲まれた店は真闇と言ってよいさまになる。
明かりがともったのは、一箇所だけ。
住居スペースの二階の一室だけだ。
そのまま続くベランダには、まだ、洗濯物が出たままになっている。 が、それに思いをやる余裕もないのだろう。
いつになく、静寂の中にある家に、自分一人で居続けるのがイヤでたまらぬのだ。
確かに人里離れ雑木林に囲まれた家は、彼女の居る部屋以外は、物音ひとつ、こそりともしない。
一歩出た廊下からすでに完全に留守宅の沈黙の中にある。
羽のあるものが二階の窓から覗けば、机に覆いかぶさるようにして、白い人差し指をイライラとしがみながら、皮表紙の分厚いノートのようなものを繰っている姿が見えただろう。
さすがに、もう、あの破れた豪華な衣装は脱いだ。が、脱いだものは脱いだままだ。部屋の上に乱暴に折り重ねてある。せめて近くにある彼女の養い親の館の方に行けば、仕えるものたちが、わらわらとやってきて片づけてくれたのであろうが、今は短い道程を戻る、その間も惜しいのだ。
白い横顔は無意識のまま引きつりすぎて、顎のかみ合わせに鈍く痛みさえ覚えるほど。
まだどこか幼くも見えるのに……その身の放つものの鋭さは、何百回も修羅場をくぐってきた傭兵さながらで、どう贔屓目に見ても、女のものではないのが異様である。一体、どういう生き方をしてきたのか……
まるで、その手に誰かの命の緒を預けられているような緊迫感で、周りの空気までが氷のように切り立っている。
探しているのは、手がかりだ。 なんでもいいから、見つけねばならなかった。それも、大至急。
日記とおぼしきものの二ページか三ページを、先ほどから繰り返し、繰り返し、こそぐように睨みつけている。
まるで、その行間に、何か大切な秘密でも隠されているといわんばかりなのは仕様がない。
ほかに、忽然として消えた彼女に残された兄の行方の手がかりはほぼ、ないと言って良かった。
いや。
実のところ、店の方にはもう一つ、これが手がかりだろうと思うものがあるのだが。
それは、朝からずっと見ていても、まったく理解できず、まずは、別のところをあたることとしたのである。
その顔が、しかし、ふいと急にノートからあがった。 立ち上がり、身を乗り出して窓の向こうを見た頬に、パッと驚きと喜びの赤が散る。
見下ろした庭先の門に、明かりが灯っている。
店の入り口も兼ねる庭先のその小さな門は、人が近づけば明かりがつくようになっている。
すなわち……
「お、お戻りかッ?」
小さく叫んで飛び上がり、涼はノートを閉じて、部屋から駆け出した。
店の戸が開けば鳴る、鈴の音が、ちりんと可愛く夜に響く。
階段をすべるように駆け下りながら、その音を聞いた涼の顔が、ますます輝いた。
「あにうえ。あにうえ!おかえりなさいませッ!兄上、いずこに行っておられた?涼は死ぬほど心配いたしましたぞ!」
どこかの扉のようにさすがに蝶番ごと部屋の中に蹴り飛ばすということはなかったが、そのまま扉が外れてもおかしくないような勢いで、家の廊下から店に続く戸を開いた涼は、しかし、そこで笑顔のまま、固まった。
椅子も机もごっそり運び出されてからっぽになっている店内を照らすのは、遠くに灯っている門のあかりだけ。
そして、その店内を、物珍しそうに見回している男は……これまで、まったく見たことのない顔だった。
自慢ではないが、あまり、どころか、まったく接客などはしたことがない。……から、普通は客を迎えるときに口にするべきであろう、いらっしゃいませの一言が、でてこない。
おりしも別の人間が……それも、戻って欲しいと、心底願っていた人間が、戻ってきたと思い込んでとびこんできてしまったせいもある。
とっさには、のどから声がでてこない。
ただ、戸に手をあてたまま、口をぱくぱくと陸揚げされた魚のように、空いたり閉じたりしている彼女に、店の中をものめずらしげに見回していた男の方が、
「はじめまして………」
先に、少し笑って肩をすくめた。
何故だろう。その微笑みは、涼には、目の前に穴を掘って、そこに落ちろとでも言っているような、意地の悪いものに思われて、何度か、瞬きをしてしまう。
きっと、気のせいだろう。彼女の兄の店にやってくる客に、そのようなおかしな者はいないはずだ。
「おや、しかし、なにかお取り込み中のところにお邪魔してしまったようですね?」
なるほど、この状況を、お取り込み中というなら、これ以上の「お取り込み」など考えつかない。
涼は、得たりや応と、勢い込んで、何度も何度も頷いてみせた。
ここで、初見の客に遠路はるばるやってきたのだから、何か食わせろなどと言われるのは、なにより避けたい事態である。
なにしろ、自慢ではないが、茶でさえ、自分の飲む分も自分で煎れたことがない。
ただでさえ、けして繁盛しているとは言い難い店だ………このうえ評判を下げるような真似はしたくはなかった。そこまで考えて、迷いが胸の中に湧き起こる。
果たして、ここで相手を追い返すのと、自分が茶を出してみるのと、どちらが良い選択と言えるのだろうか。
困惑があまりにもいっぺんにその顔に出てしまっていたのか。
対手は……何故だか、それをみて、今度は本気でおかしくなったようだ。
フッと横へ顔を背けて、口を手で覆い、シマッタという様子で、そのまま何かをこらえるように小さく、しかし素早く深く、目を伏せる仕草を見せた。
涼は怪訝な顔で相手を見ずにはいられなくなる。
どうしてそこで笑われるのかがわからない。
会う者会う者から、常識がずれていると言われるのにはもう慣れた。
しかし、このタイミングで笑われるのは、どうも腑に落ちない。
なんと応えて良いものやら、踏み込みに迷う気持ちで、何度か口を開いては閉じ、開いては閉じ、を、繰り返した。
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